結婚と婦人問題
結婚と婦人問題

男は女のかしらであるか

カール・バルトと懇談した時、彼は神、キリスト、男、女と、順次その下位にあるものの主となるようなパウロ的な一連のつながりを固守しなければならないと信じ、その中に啓示の事実とともに与えられた秩序を見ているが、わたしはどうしてキリスト者が、しかも最も信仰深いキリスト者がそうした階級組織を受けいれ得るのか考えれば考えるほどわからなくなるといった。彼は暫時だまっていたが」やがておごそかに、「しかし、そうすればそれは、われわれ男性にとっての重荷であるということがおわかりになりませんか」と言った。

わたしは全く深く感動した。今までかつてキリスト者が、男子がこのよ「うにして彼の悲劇的な立場を立証したことがあったであろうか。しかし少したってまた考えた。いやいやそんなごとはあり得ないと。人間を知り給う神が、人間をあまりにもよく知り給うゆえに、彼らを救うためには御自らのひと01子をあがないとして与え給うことが必要であると考え給うた神が、なぜその御子によって人類の半ばの救いが大部分他の半ばに依存するような重荷をおき給うことのがあろうか。

イエス・キリストはわれらのあらゆる重荷を負い十字架上に罪を克服し給うた。それに神はさばきびとおさこの世の裁判人の長らが神の戒めをあやつり、これをこの世の律法に服せしめて、容易に男性の創造した秩序に変えてしまうことを知り給うであろう。

今日でも「婦人問題」に関心を持つキリスト者はまれである。通例、それはあらゆる社会的政治的人道主義的問題の後で最後に取りあげられる。しかしそれは誤りである。なんとなれば、神と人間との問に分裂が起った瞬間に、エバとアダムの間にも分裂が生じ、しかもあらゆる人間性の問題はその二重の分裂の後にはじめて起るからである。

わたしは、「婦人問題」に触れることを余儀なくされると、この間題がいずれにしても自分たちには無関係であることを明らかにするために、「婦人」という言葉を強調する男性を知っている。またこの問題が単に存在していることだけでも個人的な侮辱だと感ずる女性を知っている。そうして、それは正当ではないだろうか。世が人類の半数の処理の仕方をらないといくうことは、少なくともばかげたことである。それ自身の問題として、婦人との関連において「男性の問題」が云々されることがあるだろうか。