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結婚と婦人問題
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婦人問題
女性を造り給うた時、神はそのことを欲し給うたであろうか。否。彼は女性が男性の相手として、彼の助け手となることを欲し給うた。言い換えれば、力となることを欲し給うたのであって、問題となることを欲し給うたのではない。真の助力を受けるためには、われわれは弱い者よりは強いものに向かいく弱さが力を意味する場合を除いて)、両極が均衡のとれた人間性を保持するように、強い反対の極に向かう。
神は人間がこの均衡によってその自由を確保することを望み給うた。それは神と人類との間の自由な取引であり、地上のあらゆる生きた文化の必須条件である。しかしそれこそまさに人間の欲しないものである。彼はその自由もその均衡も欲せず、したがって女性の助力も望まない。この思想はカふリヴクの女流詩人かつ作家であるガートゥルド・フォン。ラフォートの著書の中に最もよく表現されている。彼女は、神は男と女がその受肉したものである二次元の存在にのみ、変改できないように創造し給うことを信じている。
彼女はいう、「男は女の協力において、独創的な神のわざの協力において、独創的な神のわざの協力としての自分自身の創造性を経験する」と。また「もはや神に栄光を与えない創造的な人間は、自己をのみ主張し、したがって実際にはそれと同時に文化における宗教的なまた女性的な要素を排除しなければならない。人間の文化に対する排他的な主張において、全存在は内在的な線に沿っても超越的な線に沿っても微塵に粉砕する」。
換言すれば、男は女と怒慧極惚を慧嚇たいと、ねがう。なぜなら貸反逆者たる彼の本能が彼に警告して、彼は神との正しい極性を見出して後に、はじめてその極性に正当な基礎を与えることができると教えるからである。勇は彼の単極性においてのみ独創者となり得る。しかも、女はそれを神の意志し給う権威として受けいれなければならないのだ!その理由で、男は女に対し、女性としての性質と彼女のまもらねばならぬ限界とを指定する。またその理由で、彼は彼女が彼の許可なしにその限界を越えたり、存在のもう一方の極が彼女によって感ぜられることを恐れる。
しかし自由奔放に自己をおのれの極に捧げることによって、男は自分が期待したように主人となるのでなく、むしろ奴隷になる。与えられた瞬間に、彼はもはや自分の自由にならず、たちまち彼を占領するあらゆる種類の悪魔のとりことなる。今日、現代の狂言者は最後の段階まで平衡を失って、全世界に向かって病的な叫びをあげる。
もし聖パウロが彼の叫びをきいたならば、彼の頭を、顔おおいでのみならず、「天使-のために」鉄甲でおおうことを、そしてその上くつこをはめることを命ずるであろう。当然ここで女はこのように男性の精神を答めてもよいだろうかという問が発せられる。この悶着をもたらし、いずれにしても男と同じようにこの悪に責任があるのは女ではないだろうか。まさにしかりである。女に特殊な立場があるからといって、決してそれは男よりも有利に評価される権利を与えない。
ここにキリスト教の意味における、さらにつけ加えて言えば言葉の神的な意味における、婦人問題が存在する。精神異常は数日では直らない。またこんな程度に進んだ精神異常は数世紀では直らない。特に男が倫理や法律や制度を本能の基礎の上に打ち建て、そのすぺてに「神の創造の秩序」と銘うつような立場にある世界においては。このような精神異常をいやすためには救い主が必要である。またかかる社会の構造を暴露するためには神の御子御自身が必要である。暴露もいやしも行われた。今より後はだれもキリストは旧約の呪誼を確立するために、あるいはそれを神の秩序に昇華するためにきたり給うたのだということはできない。
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